
credit:チコちゃん
西日本でお肉と言えば「牛肉」、東日本でお肉と言えば「豚肉」となるように日本では東西で食文化が異なることがあります。
2020年7月31日回の『チコちゃんに叱られる!』の最後の質問は、「西日本は牛肉、東日本は豚肉なのはなぜ?」というものでした。実はその理由は、歴史的背景によるものでした。

7月31日回の他テーマは「マリモ(毬藻)はなぜ丸い?」「年をとるとアイドルの顔の区別がつかなくなるのはなぜ?」だったよ。
チコちゃんの答え「西が公家で、東が武士の社会だったから」

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西の公家社会と東の武士社会は、食肉文化の違いとどう同繋がるのでしょうか?
今回、詳しく解説していただいたのは、静岡県立農林環境専門職大学の祐森誠司教授です。
祐森教授は、東西で異なる食肉文化なのは、「武士と公家が生活のなかで使っていた動物の違いが大きく影響している」と言います。では、まずは、武士と公家の歴史から考察していきましょう。
1959年京都生まれ。東京農大農学部畜産学科卒。同大学院農学研究科修了。民間の研究所研究員、県立短大講師などを経て、東京農大講師、助教授から教授に。現在は静岡県立農林環境専門職大学の教授。専攻は家畜飼養学。
2017年:リンの事典
2017年:動物の飼育管理
2015年:くわしくわかる!食べもの市場・食料問題大事典
2010年:ビタミン総合辞典
歴史的背景を見てみよう

credit:平安時代campus
今からおよそ1400年前(飛鳥時代~平安時代)まで、日本の中心は奈良・京都など公家が中心の社会でした。その当時、西日本で仕事をしている動物として使われていたのが牛となるわけです。牛は縄文から弥生時代に水田技術とともに伝わったとされ、力が強くゆっくりとした動きのため、人々が扱いやすく農耕や公家の移動を手伝う動物として重宝されました。
平安時代と武士の誕生
平安時代(794年~1192年頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都・現京都府京都市)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。
平安前期は、前代(奈良時代)からの中央集権的な律令政治を、部分的な修正を加えながらも、基本的には継承していった。その後、王朝国家体制の確立によって、朝廷は地方統治を事実上放棄。その上、桓武天皇が軍団を廃止した結果として、地方は治安が悪化し無政府状態に陥いり、16世紀まで日本列島は戦乱が頻発するようになった。国家から土地経営や人民支配の権限を委譲された有力百姓(田堵・名主)層は、自衛のために武装し、武士へと成長した。wikipediaより
◼︎西日本ではなくてはならなかった牛は、なぜ当時の東日本で広まらなかった?
では、西日本で活躍していた牛はなぜ東日本に広まらなかったのでしょうか?それには2つの理由があると考えられます。
第一に「運ぶ手段がなかったから」とされます。東日本へいくには日本アルプスの高い山や大きな川を越えなければならなかったため、当時の技術でそれらを克服することができなかったようです。
第二に「関東は富士山の火山灰が積もる痩せた土地だったため」とされます。牛を育てるのは大量の牧草が必要なため、牛は育たなかったのです。
政治の中心が平安時代の西日本から鎌倉時代の東日本へ
平安時代の後期から鎌倉時代に変わった段階で、政治の中心は京都から関東の方に移ります。
公家の社会が西に残り、武士の社会が東の中心になるのですが、このときの移動手段として活躍したのが馬でした。
鎌倉時代とは?
源頼朝 credit:wikipedia
鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 – 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉(現神奈川県鎌倉市)に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。
12世紀末に、源頼朝が鎌倉殿として武士の頂点に立ち、全国に守護を置いて、鎌倉幕府を開いた。京都の朝廷と地方の荘園・公領はそのままで、地方支配に地頭等の形で武士が割り込む二元的な支配構造ができあがった。wikipediaより
鎌倉時代は幕府になにかあればいち早くかけつけるのが武士の勤めとされる「いざ鎌倉」の時代。何よりも早く移動でき、戦でも活躍する馬は武士にとってなくてはならない存在となっていました。
さらに牛と違って胃袋が小さい馬は、草の少ない関東でも飼育ができ、農業にも活躍しました。実際に、鎌倉時代の書物『国牛十図(1310年)』には、馬の産地は東日本で牛の産地は西日本に多かったと書かれています。
牛や馬は食用として使っていなかった

credit:チコちゃんに叱られる!
ちなみに、日本は飛鳥時代に仏教が伝来したことで食肉は禁止(それまでは狩猟でシカやイノシシを食べていた)されていました。基本的には明治時代になるまでのおよそ1200年間食肉は禁止だったのです。
豚が食べられるようになるまでの歴史
牛が西日本で、馬が東日本で重宝される理由は分かりました。では、豚はどうして東日本で食べられるようになったのでしょうか?ここからは豚にまつわる歴史を見ていきましょう。
「豚が日本に入ってきたのは戦国時代、沖縄と九州の間に伝わってきた」と祐森教授は言います。しかし、数が少なったことと島と本土の間で交流があまり多くなかったということで、豚を食べる文化はなかなか本土に伝わることがありませんでした。
さらに、生活に役立つ牛や馬と違い、農業や移動手段に役立たない豚は食肉禁止の時代にはあまり広まらなかったようです。しかし、この食肉文化に大きな変化が起きます。
◼︎開国による西洋文化の流入

credit:コトバンク
江戸時代末期、開国によって外国人が押し寄せると、食肉文化の外国人は日本で肉料理を食べました。食肉は文明開化の象徴として横浜などで流行。1862年には横浜に初の牛鍋屋「伊勢熊」ができると、福沢諭吉が「牛肉は滋養に良い」と言ったこともあり牛鍋が大流行しました。
こうして、日本中にまず牛肉を食べる文化が広まりました。
では、豚はというと、実は明治5年(1872年)に政府主導のもと西洋式の養豚法を取り入れますが、牛肉に対抗するほどには広まりませんでした。しかし、この後、豚が広まるきっかけが起こります。
◼︎豚の広まるきっかけは戦争
1894年日清戦争、1904年日露戦争と日本は立て続け戦争状態になります。
このとき、軍隊の食料に採用されたのが牛肉の缶詰でした。これを機に牛肉はたちまち品薄状態となり、価格が高騰します。牛の産地のある西日本はまだしも、東日本には牛肉が出回らなくなります。
実は、そのピンチを救ったのが豚肉だったのです。
豚は雑食性の動物なので、どんなものを食べても早く大きくなっていきます。残飯が多かった都市部に豚の雑食性がマッチし、さらに豚肉料理の定番「カツレツ」「トンカツ」などが登場し、豚肉の需要が高まっていきました。そして、豚肉の広がりを決定づけたのが1845年の戦争が終結した日本の食糧需要でした。「国民に対して食料(栄養の高い肉)を提供しようといった時のキーポイントが豚肉でした」と祐森教授は続けます。
豚は食肉として育つまでが6か月と牛の5分の1の早さで成長します。さらに年に20~30頭を生む優れた繁殖力にも注目され、茨城や千葉に次々と畜産試験場が建てられていきました。こうして 安く大量に生産できる豚が東日本に広まっていったのです。
◼︎どうして西日本に豚が広まらなかったのか?

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では、どうして安くておいしい豚は西日本に広まらなかったのでしょうか?
祐森教授によると、「西日本にはそれよりも先にもう牛肉の文化が定着しており、豚肉の食文化が入り込んでいく余裕というものが西にはなかった」ということです。
こうして 西日本は牛好き東日本は豚好き文化が完成しました。よって、肉と言えば西日本は牛肉・東日本は豚肉なのは、西が公家で東が武士の社会だったからとなります。
最後の祐森教授の「チコちゃんが一番すきなお肉料理は何かな?」という質問に対しえて、チコちゃんは「他人丼」と答えていました。お肉が2種類以上はいった丼ぶりのことらしいけど食べてみたい。
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◼︎祐森誠司教授の経歴
1959年京都生まれ。東京農大農学部畜産学科卒。同大学院農学研究科修了。民間の研究所研究員、県立短大講師などを経て、東京農大講師、助教授から教授に。現在は静岡県立農林環境専門職大学の教授。専攻は家畜飼養学。 実学6ひとより
◼︎教授のHP・主な関連書籍
2017年:リンの事典
2017年:動物の飼育管理
2015年:くわしくわかる!食べもの市場・食料問題大事典
2010年:ビタミン総合辞典
◼︎7月31日回の他のテーマ
年をとるとアイドルの顔の区別がつかなくなるのはなぜ? [見る]
マリモ(毬藻)はなぜ丸い? [見る]
◼︎画像・内容の引用元
チコちゃんに叱られる! [見る]
静岡県立農林環境専門職大学
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平安時代campus
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